「アメリカへ留学」(私の履歴書ep3)
今回は、物流企画課を卒業した後の「アメリカ留学」時代のことをご紹介します。
よろしくお願いいたします。
アメリカ留学の概要
当時、会社(近畿コカ・コーラボトリング株式会社)には、若手社員の育成の一環として「アメリカ留学制度」というものがありました。
3月に渡米し11月に帰国するという現地9か月の留学制度で、留学生に選ばれると年初から人事部付けとなります。
この制度が始まって最初の3年間は2名が選ばれるというものでしたが、4年目から(おそらく予算の都合で)1名となり、僕は5年目・8人目の留学生でした。
年度によってスケジュールや滞在先は少し異なるのですが、僕の場合はこんな感じでした。
最初の数か月は英語の上達と現地での生活に慣れることがメインの目的で、午前中のみ英会話学校に通い、午後はフリーとなるニートのような生活でしたから、それまでの日本での時間の使い方とは全く異なる「暇を持て余す」という贅沢な悩みに苛まれた数ヶ月間でした。
選抜のルール
このアメリカ留学生に選抜されるにはルールと基準がありました。
まずは、その前年に実施される会社の研修に参加しなければなりません。
ただ、この研修の特長は「自己啓発型」であることで、参加するには料金(約3万円)を会社に支払わなくてはなりません。
カリキュラムは、マーケティング、財務、情報システムの3つで、いずれも1泊2日の研修が週末(土日)に実施されます。
研修参加は「自分の意志」なので、振替休日が与えられることはありません。
さらに集合研修の合間には所定の通信教育を受けて修了することも必須です。
ただ、通信教育の費用もこの3万円に含まれますので、内容を考えれば安価だろうと思います。
この研修では、最後に総合演習が行われ学んだことを駆使した戦略を発表することが求められます。
ここで、最優秀の評価を得たものが次年度の留学生に選抜されるという仕組みでした。
そして、幸運にも僕は留学生に選抜してもらえたわけですが、物流企画課での仕事の経験を活かせたことはことは言うまでもありません。
通じなかった英語
そして留学生に選ばれた僕は、3月末の渡米まで大阪市内にある有名な英会話スクールに通うことになりました。
当所は全くだった英語にも徐々に慣れ、先生からも「もう大丈夫」と太鼓判を押してもらいました。
自分でも「そこそこいけるかな」という自信もあったので、希望に満ちて渡米する運びとなったわけですが、その自信は最初に降り立ったデトロイトの空港で打ち砕かれることとなりました。
ファストフード(バーガーキング)で注文する際に、店員さんが何を言ったのかが分からず、会話が全く成立しなかったのです。
後に簡単な言葉だということが分かったのですが、店員さんが話す英語は英会話スクールで先生が話してくれる綺麗な英語とは全く異なりました。
その後、アメリカで生活するにつれ徐々に慣れていきましたが、知らない単語があることは仕方ないにしても、ネイティブの皆さんが話す文法は教科書通りではありません。
話すスピードも日本で学んだものとは比較にならないほど早いです。
しかもそれぞれに癖があるし、スラングも普通に使います。
一つひとつを聞き取るのが本当に大変でした。
1つ例を挙げます。
ファストフード店でよくある会話の「お持ち帰りですか? こちらでお召し上がりですか?」を僕らが中学校や高校で習った教科書通りに訳すと
「Will you eat it here? or Will you take it out?」
などになると思うのですが、現地では「For here? or To go?」となります。
僕がデトロイトの空港で分からなかったのはこの言葉でした。
Weekend Traveler
プリンストン(ニュージャージー州)とボストン(マサチューセッツ州)では、ホームステイの生活でした。
最初は全く分からなかった英語も、ホームステイでの生活を通じて徐々に慣れていくことが出来ました。
▼ジョンストン家(プリンストン)
▼ミラー家(ボストン)
そして、会社からは、留学の際の経費として(所定の給与以外に)十分な予算が与えられており、この期間中に見聞を広めるために使って良いということでした。
留学の前任者たちの話を聞くと、旅行や現地でできた友人たちとの飲食に用いたと聞いていたので、僕もそれに倣うことにしました。
この予算を使って行った先は、例えば以下の地図でブルーの網掛をした場所なんかがそうですが、レンタカーで行ったヶ所を含めると20ヶ所を下りません。
ボストンで英会話学校に通っていた時、週末になると旅に出る僕のことをクラスメートのみんなは「Weekend Traveler」と呼んでくれました(笑)
一人旅であったことで自由に考え行動できた結果、言葉、風習、文化など様々なことを学ばせてくれました。そして根性もつきました(笑)
最後はコカ・コーラでの研修
そして帰国するまでの3か月は、現地のコカ・コーラ事業会社(Coca-Cola Northern New England社)にお世話になり様々な体験をさせてもらいました。
コンボイトラックでの配達に同行させてもらったり、大きなスーパーの催事スペースに大量のコカ・コーラボトルを積み上げたり、レストランでの商談に同行させてもらったり。
いずれも「日本のコカ・コーラの社員が研修に来ている」と知ると、お店の方も大歓迎してくれて、それは商談にも役に立ったようです。
英語には苦労した
英語に関しては、苦労の連続でした。
数か月で日常生活には困らないくらいにまで上達していたものの、テレビでニュースを見ていても半分程度しか分からんというレベルですし、ニューハンプシャー大学のビジネススクール受講ではかなり苦労しました。
一応、修了証書はもらえたのですが、ケーススタディの討議には殆ど参加できず仕舞いでした。
さすがに、CCNNE社(Coca-Cola Northern New England社)での研修では、コカ・コーラでの世界共通用語があったり、同社の社員さんもわかりやすい英語を話してくれたので、充実した時間を過ごすことが出来ました。
英語の上達のためには、「とにかく生きた英語を聞き英語に慣れる」「ためらわず勇気を出して話す」ということに尽きると思います。
下手な英語を話して恥をかくのは嫌だという気持ちになったりもするのですが、勇気を出して話し、通じなかったら別の言い方に変えるということを繰り返すことで上達していくと学びました。
そして、分からない表現、伝えたい言葉があればそのままにせずに辞書で調べて自分のものにするようにしていました。
こういった小さな行いが積み上がって英語の上達に繋がったのではないかと思っています。
The Coca-Cola Comapny
CCNNE社で研修を受けている期間、1ヶ月だけ日本から家族を呼び寄せて一緒に暮らしました。
当時、娘はまだ3歳、息子は乳児でしたので、妻はよく連れてきてくれたものだと思います。
ちなみに呼び寄せたのは会社には内緒でした(笑)
そして、全ての研修プログラムは、11月の上旬にジョージア州アトランタにあるコカ・コーラ本社(The Coca-Cola Comapny)で3日間の研修を受けて終了となります。
本社での研修と言っても、本社館内を見せて貰ったり、アトランタ市内のマーケット視察だけでした。
以下の写真は、コカ・コーラ中興の祖・ウッドラフCEOの執務室にて撮ったものです。
この3日間を対応してくれたニコルソン氏が最後に言った言葉が印象的でした。
「ここ(アトランタ本社)に来れるのは、世界で働くコカ・コーラ社員のほんの一握りだ。このことを名誉に思い、帰国したらコカ・コーラの発展のために一所懸命に尽くせ」
この言葉に心が震え、言われた通り頑張ろうと決意したものでした。
God Bless America
その後、実際に帰国するまでは自由に過ごしていいとのことだったので、ラストの1週間をカリフォルニアで過ごすこととしました。
ロサンゼルス西部のサンタモニカビーチ近くに宿をとって、ここを基点に北はサンタマリア、南はサンディエゴあたりまでドライブしたり、ビバリーヒルズやハリウッドあたりをブラブラしたりしながら最後の日々をゆっくり過ごさせてもらいました。
最後の夜、太平洋に沈んでいく夕陽を見ながら、アメリカでお世話になったすべての方を思い出し、感傷に耽ったのでした。
最後はちょっと贅沢しようと、ANAのビジネスクラスを利用し窓側の席をリクエストしました。そして、God Bless Americaと呟きながら機内から西海岸の風景を見つめ、お世話になったアメリカに別れを告げました。
さて、帰国後はどの部署に配属になるのか興味津々でした。
もう物流部に戻ることは無いだろうから、営業企画部か経営企画部のどちらかだろうと勝手に思い込んでいました。
しかし、蓋を開けてみると思いもよらぬ部署が発表されました。
(つづく)
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